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家庭における経済的・道徳的責任

至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこのように仰せられています:

男性が女性の庇護者であるのは、アッラーが一方を他よりも強くなされ、彼らが自分の財産から、(扶養の)経費を捻出するためである。 [4:34]

この節では、家庭における夫の経済的・道徳的責任が強調されています。男性の、より力強い性としての身体面、社交性などの生まれながらの特質は、月経、妊娠、授乳、早期の育児などの負担を負わずに済むことも相まって、上記のような責任を負うことを可能にさせます。男性は彼の家庭の“後見人”であり、それは既述のように羊の群れを従えた羊飼いであると喩えることが出来ます。彼はいずれ自身の責任に関して全てを清算され、その行いを質問されることになるのです。女性はその性質からも脆い性であり、生物学的、感情的、そして社会的に、子育てと家政の役割により適しています。彼女らはより直感的、そして感情的な知性を享受されています。これは栄誉高く、完全に保護されている自然な女性的役割なのです。月経、妊娠、出産、授乳、そして絶え間ない育児などの負担と苦痛により、女性は様々な期間の休息が必要となるため、彼女らは経済面や職務などといった、家庭における生計の維持に必要とされるような更なる責任を負う義務を課されません。これら全ての関心事は女性の精神面に影響を与え、彼女の生活における心構えや行動などに反映されます。これは他の多くの文明にも規定されている自然な状態ですが、前述されたように多くの不正も行なわれてきました。

著名なエジプト人作家、アッバース・マフムード・アル=アッカドはこのように記しています:

“女性は男性のものと似通わない特別な精神構造を持っています。幼児や子供との関わり合いには、多くの類似性が必要とされ、子供の精神構造と母親のものもその内の一つなのです。彼女は子供らの必要とするもの、子供らの考えや感じ方を理解しなくてはなりません。それゆえこの要求を満たすため、女性はより感情的に敏感なのです。これは男性と比較した際、女性が毅然かつ断固とした意志を持つことを困難にします。”

またノーベル賞受賞者のアレックス・リベレイユ博士は、男女の自然な本質的相違に関してこのように述べています:

“男女を区別する事柄とは性器、子宮、妊娠だけに限られたものではありません。また、男女の教育方法の相違にも限定されるものでもありません。実際に、これらの相違は基本的性質のものです。男女の肉体組織は異なるものです。双方の身体的な科学現象も異なります。特定の性別には、その性別のみに適した一定の分泌腺があり、一定の分泌物を排泄します。女性の体内の卵巣から分泌される科学物質という観点からも、女性と男性は全く異なっていると言うことが出来ます。”

男女の完全な同権を求める人々は、基本的事実と根本的相違を軽視します。男女同権の提唱者たちは、男女共に同じ種類の教育、職業、任務、責任、立場が与えられることを要求します。こういった不条理は、女性の性質および身体的、精神的、感情的、社会的な特性に配慮を示していません。男性に特有の性質やホルモンがあるように、女性の身体の全ての細胞にも、女性ホルモンによって管理された女性的性質が存在しているのです。 均等になろうと望む人々は、こういった事実がまるで目に入らないかのようです。彼らは男女それぞれの器官がユニークであり、お互いに異なることが分かっていないのです。男女の中枢神経系は、人間活動におけるそれぞれの役割に対して緻密な働きをします。私たちは自然法とその活動をありのままに認め、不自然な妨害や干渉によってそれらを変更しようと試みるべきではないのです。自らの利益のためにも、男女の双方は天賦の才能を元に確立されるべきであり、決して異性を模倣することにより、自らと他者を虐待することにもつながる逸脱行為をすべきではありません。また別の要素として、男性の骨格と筋肉は女性のものよりも密度が高く、強靭であるということがあります。これはごく自然なことであり、周知の事実でもあります。男性はより肉体労働に適しており、女性には身体的に同等の耐久力はありません。これは男性が家庭において彼らの片割れ(妻)との協議の上に経済的、そして職務的に統率する立場であることと、その生得性を示すもう一つの証拠でもあります。そして前述されているように、それは同時にイスラームの一般規定でもあるのです。