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同時に複数の妻と婚姻関係を結ぶこと、つまり一夫多妻 制は、人類の歴史に匹敵する程の古い習慣であり、イスラーム法においても認められています。一夫多妻制は当時のアラブ以外の他地域の習慣としても、古代ヘブライ人、エジプト人、ギリシャ人、ペルシャ人、アッシリア人、日本人、インド人、ロシア人、ドイツ人などによって行なわれて来ました。
過去に啓示された全ての宗教は一夫多妻を実践し、容認して来ました。旧約・新約聖書は数ある聖典の中でも最も早くからそれを合法化し、実践していました。預言者ムハンマド(r)以前のアッラーの預言者たちの多くも複数の妻を持っていました。預言者アブラハムには二人の妻がいましたし、預言者ヤコブには4人の妻、預言者ダビデに関しては99人の妻を持っていたと言われています(u)。また預言者ソロモン(u)には700人もの高貴な出身の妻と、300人の奴隷出身の妻がいたそうです。預言者モーゼ(u)の律法においては、夫に許された妻の人数を特定、または制限する箇所はありません。エルサレム周辺に居住していたタルムード編纂者たちは、男性に認められる妻の数を制限しており、一部のユダヤ教学者たちも第一夫人が不治の病にある場合、または不妊の場合においてのみ二人目以上を認めています。また一部の学者たちは一夫多妻を完全に禁じてさえいます。
新約聖書の中で、イエスはモーゼ(u)の律法に従うよう命じられていますが、一夫多妻を禁じることを示す印は一つとして存在してはいません。キリスト教で一夫多妻が禁じられたのはキリスト教会一派の制令によるものであり、キリスト教元来の教えによるものではないのです。
こうした理由により、私たちは多くのキリスト教徒たちが複数の妻を娶る例を見出すことが出来ます。例えば、アイルランド国王ディサルメ(Ditharmet)には二人の妻がいましたし、フレドリック王二世にも、教会の許可によって妻が二人いました。従って、一夫多妻の禁止は教会の聖職者の手によるものであり、イエス・キリスト(u)本人による普遍的に知られる元来の法とは合致していないことが分かります。プロテスタント教会を創設したドイツ人聖職者のマルティン・ルターは、一夫多妻を合法であると見なし、多くの場面でそれを提唱しているほどです。
一夫多妻制はイスラーム勃興以前の多神教アラブ部族においても実践されていましたが、前述の諸預言者の時代の場合と同様に、結婚出来る妻の数については制限がありませんでした。イスラームの登場によって、イスラーム法は一夫多妻制を容認しましたが、男性には四人までの妻という制限が加わり、更に婚姻に関する規定が定められました。真性な伝承の中には、四人以上の妻を持つ者たちに対し、イスラームを受け入れた暁には四人だけを残し、残りの者たちに関しては誠意を示して離婚をするようアッラーの使徒(r)が義務付けたという数々の例が存在します。
慈愛遍きアッラーはこのように仰せられています:
(もしも汝らが孤児に公平にしてやれそうにないならば、汝らが望む二人、三人または四人の女を娶るのだ。だが公平にしてやれそうにないならば、ただ一人だけ(娶るか)、または汝らの右手が所有する者(奴隷、捕虜の女)で我慢するのだ。これが不正を避けるためにより良いのである。) [4:3]
このように、私たちは全ての妻に対する待遇における厳格な意味での公正、そして不正の回避が、複数の妻を希望する者に規定されている条件の一つであることを見出すのです。
アッラーの使徒(r)は次のような言葉で偏愛を警告しました:
“二人の妻を持つ者が双方に対し公平でなければ、彼は復活の日に、体の片方が崩れ落ちた状態で現れるだろう。” [アブー・ダーウード 2133番、ティルミズィー 1141番]
この脈絡での正義と公平とは、出費、富の分割、贈与などの物資的なものや、時間などにも適用されます。一方で特定の妻だけに強い愛情を抱いたり、心が偏向してしまうような感情的な部分については、心の奥底の感情や潜在意識は人にはコントロールの出来ないものであるために容認されています。慈愛遍きアッラーはこのように仰せられています:
(汝らが妻たちに公平にしようとも、それは到底出来ないであろう。たとえ汝らが(心から)切望しようとも。だから偏愛に傾き、妻の一人を(結婚とも離婚ともつかずに)曖昧に放って置くのではない。汝らが調和し、主を畏れるのならば、実にアッラーは、度々赦される御方、慈悲深い御方であられる。) [4:129]
信仰者の母、そして預言者の妻でもあるアーイシャ(r)は次のように伝えています:
“預言者(r)は彼の妻たちの間に公平に分配し、こう言ったものでした:
アッラーよ!これは私の所有物の分割です。アッラーよ!あなたのみが所有されるお方です。私が所有しないものに関して私を咎めないで下さい。” [アブー・ダーウード、ティルミズィー、その他。尚この伝承は伝承経路が脆弱であると言われています。]
尚、性不能の男性に関しては、基本的条件を満たさないために結婚の対象とされるべきではないでしょう。また新たな妻と家庭を経済的に養うことの出来ないことがはっきりしている男性も同様に、婚姻を求めるべきではありません。婚姻を望む独身男性は、妻と子供の将来のために収入源を持つことに努力しなければなりません。一般的な裁定として、アッラーは次のように仰せられています:
(そして結婚(の資金)を見出せない者は、アッラーの恩恵によって富むまで自制せよ。) [34:33]
それでは、いかなる社会においても存在し得る状況を参考とし、一夫多妻制が諸問題に対して良き結果となるのかどうか、また一夫多妻制が女性の利益に反するのかどうかを考察して行きましょう。以下に述べられている点からは、多くの状況において一夫一婦制が乱交や売春、または離婚につながっていることを証明しています。
1)もし女性が不妊症であり、夫が子供を欲しがる場合、彼はその女性と離婚すべきでしょうか?またはその女性が結婚を維持したいと希望する場合、男性は第二夫人を娶り、彼の合法的な妻として二人の妻の双方に同等の権利を与えるべきでしょうか?
2)2)もし女性が慢性的な病を患い、男性との性的交渉を持つことが出来なくなった場合、彼は彼女との婚姻関係を維持したまま第二夫人を娶り、女性は第一夫人として名誉を保ったまま、夫による扶養と保護を受けるべきでしょうか?あるいは彼女は男性によって離婚されるべきでしょうか?
3)3)一部の男性は経済的に裕福な上、多量の男性ホルモンを有するため、性的要求が高いとされます。そしてこのような場合、妻一人では彼の合法的で自然な性的欲求を満たすことが出来ない場合があります。また、もし月経期間あるいは産後の出血が通常よりも顕著に長い場合、または彼女が男性の性欲と釣り合わない場合やその他の状況などにおいて、夫と妻にとっての最善策は何でしょうか?男性が鬱憤を溜め込むことでしょうか、それとも非合法的な婚外の性的満足感を求めることでしょうか?あるいは彼の貞節さと満足感を保つことを助ける、他の合法的な妻を娶るべきでしょうか?
4)4)世界の様々な地域では、国家間の戦争や内戦、または災害によって、多くの男性が命を落します。更には様々な理由により、大半の国々では女性の総数が男性のそれを上回っています。これに関する良い例としては、天文学的な戦死者数をもたらした第一次・第二次世界大戦が挙げられるでしょう。他の地域でも同様の不釣り合いな死亡率が挙げられています。そのような状況において、もし全ての男性に一人ずつしか妻がいなかったのであれば、合法的な婚姻関係を失った女性たちはいかにして社会的、経済的、そして性的に満足することが出来るでしょうか?一部の女性たちは姦通、同性愛、または売春によって性的欲求を満たそうという誘惑に負けてしまうかもしれません。これは社会の不安定化の要素となってしまいます。夫を持たない女性たちの増加と、彼女らを世話し保護する男性親族の欠如は、社会における腐敗と違法な性行為を広める要素の一つです。社会にとって、またこのような状況下の女性にとって最善なこととは、独身として留まり人生における重責に耐え続けるか、または第二夫人として誠実で貞操な名誉ある男性と結婚することを認めることのどちらでしょうか?
不幸にもどのような近代社会においても乱交は存在しますが、それは人の手によって作られた法がそうであるように、社会的犠牲が伴うにも関わらず、合法化の末に容認されるべきでしょうか?大半の近代社会では一夫一婦制のみが合法とされていますが、上述のような状況においては代替策として、愛人、恋人、エスコートサービス、売春、事実婚などという形を取った婚外交渉が社会的に認められているのです。これらの類の関係を持つことは、まずそれ自体が無益であり、そしてもし両者がやがて結婚するということにならなければ、そういった不法な関係はたびたび虐待や争いなどを生み出すのです。これらの不法な関係は、ただ責任を伴わない形で双方の性的欲求を満たすだけのものであり、一般的に女性が権利を侵害される結果となるのです。法的にも経済的、社会的そして感情的な義務は課されず、たとえ女性が妊娠したとしても、それは彼女自身の問題とされ、子供は私生児として家族の援助を受けることもなく、時には見捨てられて孤児院などの施設に預けられてしまうのです。一般的に、男性側には子供の親権を認知する義務がなく、そのため子供に対する経済的責任を負う義務がありません。このような社会においては妊娠中絶が日常的に行なわれます。イスラーム法では、第二夫人、第三夫人、第四夫人それぞれが第一夫人と全く同じ権利と恩典を有し、不公平や不名誉は微塵も許しません。
不貞、姦淫、そしてあらゆる婚外性交渉は、イスラームにおいて厳しく禁じられており、預言者はこういった社会的病から社会を守るため、あらゆる手段を尽くしました。もしそれが蔓延するならば、それらは個人と家庭、そして社会全体をつなげる基本的結束において害悪と破滅をもたらすだけなのです。次に引用する伝承では、若い年頃の男性に対しての預言者(r)の忍耐強い助言として、多元的な視点を持つこと、そして欲望に流されて不貞や姦淫に走ることの悪が説かれており、彼の優れた類推による英知が如実に現れています。自分の女性親族が搾取、利用、虐待されることを望む者など誰もいないのですから、どうして他者を搾取することなど出来るでしょうか?
ある真性な伝承ではこのように語られています:
“ある若い男性がアッラーの使徒(r)を訪れ、こう尋ねました:
‘アッラーの使徒よ、どうか(特別に)私通(と不貞を行うこと)の許可をお与え下さい。’
人々は彼を激しく非難し始めましたが、預言者は彼の近くに座り、こう聞きました:‘あなたはそのようなことを自分の母親に望みますか?’
彼は応えました:‘いいえ、アッラーに誓って。アッラーがあなたのために私を犠牲とされますよう。’
アッラーの使徒(r)は言いました:‘同様に、人々は自分たちの母親に同じことを望まないのですよ。’そして続けました:‘あなたはそのようなことを自分の娘に望みますか?’
‘いいえ。’ と彼は答えました。
アッラーの使徒(r)は言いました:‘同様に、人々は自分たちの娘に同じことを望まないのですよ。’そして続けました:‘あなたはそのようなことを自分の(父方の)叔母に望みますか?’
‘同様に、人々は自分たちの(父方の)叔母に同じことを望まないのですよ。’そして続けました:‘あなたはそのようなことを自分の(母方の)叔母に望みますか?’
‘同様に、人々は自分たちの(母方の)叔母に同じことを望まないのですよ。’ それから預言者(r)は彼の手を若者に置いて言いました:‘アッラーよ、彼の罪をお赦しになり、心を浄化させ、貞節な者として(性的な罪への抑制を強化させて)下さい’。” [アハマド 22265番]
上記の伝承は、アッラーの使徒 (r) により言及されている、以下のような黄金の掟の実践への適用であると言えるでしょう:
“あなた方は、自分の欲するものを自分の兄弟に欲するようになるまで、(真の)信仰者とは言えないのです。” [ブハーリー 15番、ムスリム 44番]
イスラーム社会における一夫多妻制は、四人までに制限されています。それはつまり、適切な婚姻契約と証人をもって行なわれた結婚のことです。男性はこれらの結婚による妻と子供たちに対し、全ての経済的負担と責任を持たねばなりません。子供たちは全員が嫡出児とされ、両親の保護と世話のもとで責任をもって養育されなければなりません。
しかし、もし男性に一夫多妻が許されたのであれば、なぜ女性には一妻多夫 が許されないのかと問われるかもしれません。これに対する答えは単純です。なぜなら既述のように、数々の生得・身体的な要因がそういった選択肢の実現を不可能にするからです。ほぼ全ての社会において、男性はその体力と生得的性質から、家庭における権威としての地位を持つからです。たとえ体力的な要素を無視したとして、一人の女性に二、三人の夫がいたとしても、次のような疑問が浮上するでしょう:誰が家庭における権威としてリーダーシップを取るのでしょうか?これは夫たちの間に有害な競争、嫉妬、怒りや憎しみを生み出し、結果的には社会への大きな被害をもたらします。更に、もし女性が一人以上の男性と結婚が出来るのであれば、誰が彼女の妊娠する子供を認知し、また父権に関してどのような説得力のある決定が下されるのでしょうか?そしてこのような取り決めから数世代後に、社会の人口はどうなっているでしょうか?男性はそういった一人の妻に対しての婚姻契約において、貞節を保っていられるでしょうか?それとも乱交への誘惑に駆られるでしょうか?これらの疑問に対する答えは明白です。女性はおよそ年に一度、そして一度に一人の男性からしか妊娠することが出来ませんが、男性は継続的に複数の女性を妊娠させることが出来ることから、女性が複数の男性と関わりを持つということよりも、男性に一人以上の妻がいることの方が、より自然で論理的であると言えるでしょう。
とりわけ一夫多妻制においては、男性が妻と子供全員の扶養に対する責任を持っており、それによって秩序立った家庭がもたらされますが、一妻多夫に至ってはそうではありません。それゆえ、考え得るあらゆる角度から見ても、それは理にかなわないものなのです。
以下に、一夫多妻制を要求し、それが社会の諸問題における唯一の解決策であると見なした西洋の思想家たちによる発言を見ていきましょう。
著名なフランス人思想家であるギュスターヴ・ル・ボン は、その著書「アラブ文明(Arabic Civilization)」の中でこのように述べています:
“一夫多妻制は社会的危機の減少を可能とし、愛人問題を解決し、社会から私生児をなくすのである。”
またアニー・ベサントは、彼女の著書「インドの宗教(Indian Religions)」の中でこう述べています:
“アッラーの意志に心から従う、アッラーに最も近い友が一夫多妻を実践しているのを私は旧約聖書の中で見いだしました。更に新約聖書では、一人の妻を扶養することしか許されていない教会の聖職者か牧師でない限り、一夫多妻は禁じられていません。インドの古代宗教書でも、同様に一夫多妻が認められています。しかしながら、他者の宗教実践を批判するのは容易なことです。そして、それこそが人々がイスラームを非難し、その一夫多妻制の容認を攻撃させている原因なのです。西洋人たちが、制限・制約されたムスリムの一夫多妻制に反対するのは、彼ら自身の社会に蔓延する売春や乱交の事情を考えれば、実に奇妙なことです。西洋社会への慎重な考察は、ごく一握りの純粋で貞節かつ誠実な男性たちが、一人の妻のみに対しての清らかな結婚関係に敬意を示し、婚外交渉をしないことを明らかにします。従って、彼らが合法である妻以外に愛人や恋人を持ったり、その他の方法で性的行為を行ったりするために、その社会が(男性唯一の結婚関係を維持することを意味する)一夫一婦制であるという主張は間違っており、不正確なものなのです。もしも私たちが公正で平等であろうとするならば、イスラームにおける一夫多妻制が社会の一員として女性への敬意を示し、保護と栄誉を与えていることが分かるはずです。一夫多妻制は、男性が愛人・恋人を持つことによって女性の感情、ニーズ、名誉を全く考慮に入れず、性的欲求だけを満たすことを許すような西洋的売春社会よりも優れているのです。男性は欲求が満たされ次第、関係を持った女性を捨て去ります。男性には愛人や恋人に対して行うべき社会的義務や責任がないからです。彼女と関わりを持つ唯一の目的は、一時的な性的欲求を満たすことだけであり、彼の求めるものはその場だけの付き合いのみです。一部の人々は、一夫多妻制と姦通・売春が同じように悪く、容認し難いものであると主張しますが、そのようなことを言うノン・ムスリムは果たして公平であると言えるでしょうか。というのも彼らは自分たちも同じ様なことを行っていながら、社会的な容認と認知を受けていることを行うムスリムを非難しているのですから。”
また著名な英国人学者ジャワードは、次のように発言しています:
“一夫多妻を妨げる英国の硬直したシステムは不正であり、容認の出来ないシステムである。それはおよそ二百万人の年老いてしまった未婚婦人を著しく害するものである。これらの女性たちは若さを失い、子供をもうけることが出来ない。それゆえ、これらの女性たちはあたかもナツメヤシの種を捨てるかのごとく、倫理観を捨てることを余儀なくされているのである。”
一方前フランス議会の委員ムブナールは、こう記しています:
“もしも全てのフランス人青年が、各一人ずつ女性と結婚したとしても、二五〇万人のフランス人女性は夫を見つけることが出来なくなってしまう。私は正直に、‘女性は母親にならない限り、健康的な人生を楽しむことが出来ない’ということを信じていると宣言する。私は、社会の一員である多くの人々が人間の摂理に反し、矛盾し、軽視する状況を強いるような判決を可決するものは、それがいかなる法であれ、正義と公正さの微塵もない残酷で野蛮な法であると信じる。”
1959年、国連はある発行物を出版し、特別声明を出しました:
“この出版物は、統計により全世界が増加し続ける私生児の問題に直面していることを証明しました。一部の国々では、私生児の総数が60%も増加している地域があります。例えばパナマでは、私生児の割合が国の全出生率の75%にまで達しています。これは、4人中3人の子供たちが婚外交渉によって生まれた非嫡出子であることを意味します。私生児の割合が最も高い地域はラテンアメリカであると発表されています。”
同時にこの発行物は、イスラーム世界における非摘出児出産の数が(他国と比べ)ほぼ皆無であることを証明しました。発行物の編集者は、イスラーム諸国に住む人々が一夫多妻を実践することの事実により、こういった社会問題や病から保護されていることを主張しています。
婚姻契約における後見人の力
イスラーム法学においては、婚姻関係を有効とする条件の一つに、当該女性の完全な同意が求められます。
預言者(r)はこのように言われています:
“‘アイイム’(離婚した女性、または未亡人)は、結婚の申し込みがあり、彼女の合意がない限り結婚されてはならない。そして処女は、彼女との協議のない限り結婚されてはならない。”
ある者が質問しました: “アッラーの使徒よ、彼女の許可とはどのようなものでしょうか?”
彼は答えました:“沈黙である。” [ブハーリー 4843番、ムスリム 1419番]
もし女性が望みもしない結婚を強要されたのであれば、彼女はムスリム裁判官へ訴えてその結婚の取り消しを求める権利があります。アッラーの使徒(r)のもとに、アル=ハンサー・ビント・ハダムという過去に結婚していたことのある女性が訪れ、彼女の父親が彼女の嫌う男性との結婚を強制したことを訴えに来ました。彼はそれを不認可し、無効としました。
またもう一つの条件として、彼女は自分の後見人を抜きに誰かと結婚してはならないというものがあります。彼女の父親、または彼が存命していない場合は彼女の祖父、父方の叔父、兄弟、更には成人した息子、あるいは国家の長などが彼女の後見人として、彼女の権利が守られることを保障し、彼女と共に婚姻契約に署名しなければなりません。彼の役割は、新郎が節操のある誠実な者であり、彼女による適切な結婚の際の贈与財の受け取り、そして彼女の認める二名の証人によって証言がされるのを確認することです。これらの全ては、女性側の権利、そして婚姻における尊厳の保護を目的とします。
アッラーの使徒(r)は次のように述べて、このことを明確にされています:
“後見人なくして結婚は成立しないのである。” [アブー・ダーウード 2058番、ティルミズィー 1101番]
また別の伝承ではこのように述べられています:
“後見人なくして結婚は成立しない。そして後見人のない者には、統治者が後見人の役割を果たすのだ。” [アハマド 2260番、イブン・マージャ 1889番]
それゆえ、もし女性が駆け落ちし、自分たちだけで結婚したのであれば、それは預言者(r)が言明されているように、非合法であると見なされます。
“いかなる女性であれ、後見人の同意なくして結婚したのであれば、彼女の結婚は無効である。そして彼女の結婚は無効である。そして彼女の結婚は無効である。そしてもし男性が彼女と床入りしたのであれば、彼は彼女の恥部を自らに合法としたことによって、彼女は彼から結婚の際の贈与財を受け取らなければならない。そして彼らが論争になれば、統治者が後見人のない者にとっての後見人となる。” [アブー・ダーウード、2083番、ティルミズィー 1102番]
娘としての権利において既述したように、初婚者であるかどうかに関わらず、女性には結婚の申し出を自分の自由意志によって受け入れるか断るかを選択する権利があります。後見人制度は、女性側の利益を守るためだけに存在しているのです。場合によってはイスラーム国家の統治者、または総督が彼女の合法的な後見人となり、彼女にとっての秩序となり、また犯罪的行為が存在しないかどうかを確認するという事実は、婚姻契約の神聖さ、そして女性のイスラームにおける権利という尊厳をより強固にするものです。
女性は先天的にかよわい存在であるため、イスラーム法は彼女の利益と福祉を保護し、彼女の権利を保持させる原則と法を定めています。彼女の両親と親族は必要ならば、彼女にとって最善かつ相応しい人物の選択を手助けすることが出来ます。なぜなら彼らは皆彼女の幸せを願い、彼女が結婚における失敗の被害者となることを望まないからです。結婚の目的とは男女の永続的関係を築くことであり、子供にとっての愛情に満ちた有益な家庭の構築でもあり、特定の欲求を満たすためだけのものではありません。一般的に、女性は男性よりも感情的になり易く、深層の実在よりも外観などに影響や誘惑を受けやすい傾向にあるものです。それゆえイスラーム法は、後見人が求婚者の男性が誠実でなく、女性にとって相応しい者でないと見なせば、彼の申し出を拒否し、却下する権利を認めているのです。この場合、男性による後見人の役割は、権力と責任を併せ持つ男性の性質上、ごく自然なものです。更に、男性は他の男性の価値を同性として、特定の範囲でより理解出来るということも否定出来ないでしょうし、自分の娘または彼の庇護下にある女性にとって何が適しているのかを見極めることも出来ます。もちろん、彼は新郎を決定する過程において、妻や女性側との協議を欠かしてはなりません。もし適切な男性が結婚を申し出て来て、後見人が正当な理由もなしにそれを拒否したのであれば、イスラーム法廷において後見人の資格に関する正当性に関して訴えることが出来ます。後見人の資格は女性に最も近親である成人男性親族に与えられるか、もしくは女性に成人した男性親族がいない場合、ムスリム裁判官が後見人を引き受けることになります。
最終的な検証として預言者(r)は、結婚に相応しい人物を測る真の基準についてこう述べられています:
“もしもある人物があなたに結婚を申し込み、彼の宗教観と人格に満足したのであれば、彼と結婚しなさい。そうしなければ地上に大いなる災難が降りかかり、頽廃が蔓延るでしょう。” [ティルミズィー 1085番]
自身のイスラーム的責任に健全な理解を持ち、良き道徳的価値観を持つ人物は、彼の妻に名誉を与え、敬意を示し、たとえ彼女を強く愛さなかったとしても公正な待遇をすることでしょう。
家庭における経済的・道徳的責任
至高なるアッラーは、聖クルアーンにおいてこのように仰せられています:
(男性が女性の庇護者であるのは、アッラーが一方を他よりも強くなされ、彼らが自分の財産から、(扶養の)経費を捻出するためである。) [4:34]
この節では、家庭における夫の経済的・道徳的責任が強調されています。男性の、より力強い性としての身体面、社交性などの生まれながらの特質は、月経、妊娠、授乳、早期の育児などの負担を負わずに済むことも相まって、上記のような責任を負うことを可能にさせます。男性は彼の家庭の“後見人”であり、それは既述のように羊の群れを従えた羊飼いであると喩えることが出来ます。彼はいずれ自身の責任に関して全てを清算され、その行いを質問されることになるのです。女性はその性質からも脆い性であり、生物学的、感情的、そして社会的に、子育てと家政の役割により適しています。彼女らはより直感的、そして感情的な知性を享受されています。これは栄誉高く、完全に保護されている自然な女性的役割なのです。月経、妊娠、出産、授乳、そして絶え間ない育児などの負担と苦痛により、女性は様々な期間の休息が必要となるため、彼女らは経済面や職務などといった、家庭における生計の維持に必要とされるような更なる責任を負う義務を課されません。これら全ての関心事は女性の精神面に影響を与え、彼女の生活における心構えや行動などに反映されます。これは他の多くの文明にも規定されている自然な状態ですが、前述されたように多くの不正も行なわれてきました。
著名なエジプト人作家、アッバース・マフムード・アル=アッカドはこのように記しています:
“女性は男性のものと似通わない特別な精神構造を持っています。幼児や子供との関わり合いには、多くの類似性が必要とされ、子供の精神構造と母親のものもその内の一つなのです。彼女は子供らの必要とするもの、子供らの考えや感じ方を理解しなくてはなりません。それゆえこの要求を満たすため、女性はより感情的に敏感なのです。これは男性と比較した際、女性が毅然かつ断固とした意志を持つことを困難にします。”
またノーベル賞受賞者のアレックス・リベレイユ博士は、男女の自然な本質的相違に関してこのように述べています:
“男女を区別する事柄とは性器、子宮、妊娠だけに限られたものではありません。また、男女の教育方法の相違にも限定されるものでもありません。実際に、これらの相違は基本的性質のものです。男女の肉体組織は異なるものです。双方の身体的な科学現象も異なります。特定の性別には、その性別のみに適した一定の分泌腺があり、一定の分泌物を排泄します。女性の体内の卵巣から分泌される科学物質という観点からも、女性と男性は全く異なっていると言うことが出来ます。”
男女の完全な同権を求める人々は、基本的事実と根本的相違を軽視します。男女同権の提唱者たちは、男女共に同じ種類の教育、職業、任務、責任、立場が与えられることを要求します。こういった不条理は、女性の性質および身体的、精神的、感情的、社会的な特性に配慮を示していません。男性に特有の性質やホルモンがあるように、女性の身体の全ての細胞にも、女性ホルモンによって管理された女性的性質が存在しているのです。 均等になろうと望む人々は、こういった事実がまるで目に入らないかのようです。彼らは男女それぞれの器官がユニークであり、お互いに異なることが分かっていないのです。男女の中枢神経系は、人間活動におけるそれぞれの役割に対して緻密な働きをします。私たちは自然法とその活動をありのままに認め、不自然な妨害や干渉によってそれらを変更しようと試みるべきではないのです。自らの利益のためにも、男女の双方は天賦の才能を元に確立されるべきであり、決して異性を模倣することにより、自らと他者を虐待することにもつながる逸脱行為をすべきではありません。また別の要素として、男性の骨格と筋肉は女性のものよりも密度が高く、強靭であるということがあります。これはごく自然なことであり、周知の事実でもあります。男性はより肉体労働に適しており、女性には身体的に同等の耐久力はありません。これは男性が家庭において彼らの片割れ(妻)との協議の上に経済的、そして職務的に統率する立場であることと、その生得性を示すもう一つの証拠でもあります。そして前述されているように、それは同時にイスラームの一般規定でもあるのです。